思うに、本とか物語とかって、推理モノというだけである程度の面白さはあるのではなかろうか。
うむ。なんかハードルが下がるというか。
事件が起こり、それを解くという構成を人は好むのかなと思っておる。
ドラマでも、刑事ドラマとかって今まで何千もつくられてきたろうが、飽きずに見てしまう。
そのとき、どこか淡々と見ている感じ。
この淡々と見ている、読んでいる、という行動が好きなのである。
まあ一応、これら(推理モノとか刑事モノとか)は知的なジャンルではある。間違いない。
しかしそれも疲れから来ているのかもなぁ。作品に触れて、自分の感情を揺さぶるのがしんどいのかもしれない。
うおおお、と熱くなっていられない模様。
推理モノとそれ以外、すなわち正統派というのだろうか?これらのどちらが優れているのかはわからないけどなぁ。
チェスタトン「ミダスの仮面」。
「ミダスの仮面」を一応読破できました。
残されていたブラウン神父ものであります。前回の「ドニントン事件」と同じく、手に入れにくい作品。
これブラウン神父ものとしてはそこまで出来が良くはないかも。
銀行とか金融とかの要素が出てきて、堅苦しい印象があったなこれ。
まだ合作という形をとった「ドニントン事件」の方が好きかもしれない。
というか久しぶりにチェスタトンに触れたからか分からんが、読みにくさがやはりある。
まあマジの文学なんだろうけどな、こういうのが。
それでもブラウン神父ものであればもうちょっと親しみやすいと思ってたんだがな。
文章の凝り方が半端ではない。まあこれはチェスタトンでしか味わえない魅力ともいえるのだろうが。
「ミダスの仮面」はかつてのブラウン神父ものがもっていた「おとぎ話感」が消えている感じがする。
一理ある。
1936年の作品。チェスタトンが1936年に亡くなっているし、解説でもおそらくは死の床で執筆されたと書いてある。
まあ正確な執筆時期はわからないが、遺稿の中にあった作品らしいなこれ。
なんか、最晩年の著作の中に、ブラウン神父ものが一つあったという事実に感動する。
うむ。それだけで十分かもしれない。
「ミダスの仮面」、もし読むなら「法螺吹き友の会」という作品の最後に収録されております。
ブラウン神父は今作中で言う。かつての殺人より現代の窃盗犯は非人格的だと。
殺されるとき、自分を刺した人間の顔は見ることができるが、現代の窃盗は自分の金を奪ったものの顔を見ることがもはや不可能になっているとな。
神父にとっては殺人のほうが、牧歌的と言えたのであったと。
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